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『上井覚兼日記』天正2年(1574)10月11日~17日条 [上井覚兼日記]

十一日、この日、法華千部会が成就した。この日の朝、真幸(島津忠平)への返事をした。内容は、「鎌田尾州(政年)・光明坊が申していること(上洛希望)、いろいろと細かな事情があるようで、(義久としては)言うべきことはない。しかし、新納刑部大輔(忠堯)・宮原筑前守(景種)が、今日(大口から)帰ってくるので、鎌田・光明坊の考えを聞いた上で、追って返事する」というもので、(忠平からの)書状に対する返書も、これも同様に追って返札をする、とのことであった。
 この日、意釣(川上忠克)のところで、夢想連歌があり、その連衆として参加。
 この日の朝、二階堂三郎次郎殿に対し御老中からの伝言を伝えた。「あなたの役所(所管区域ヵ)のこと。税所越前殿に尋ねたところ次のように申した。『間違いなく土橋殿の役所には、空き地がある。二・三人(移動を)望んでいるものがおり、その中でも二階堂殿を先に移動させることになり、去五日、面談した上で、(税所)越前が八日に鹿児島に来て、土橋殿と一緒に御老中に申請しようということになったのに、二階堂殿が六日に(御内に)参上したさい、御老中に直接申請したようであり、七日に越前が聞いたところでは、彼役所(土橋殿所管の空き地)を(二階堂殿に)下し、知行させることになったとのこと。(義久から)給与されたのはいいのだが、最初に約束したことを違え、地頭による申請を差し措いて、直接老中に申請したことは納得出来ない』とのこと。(そうした経緯で)彼役所を二階堂殿に与えるのは、税所越前が納得出来ないと、何度も訴えてきている。」と伝えた。(二階堂殿は)「間違いなくそのとおりです。しかしながら、たびたび地頭(税所越前ヵ)に訴えたにもかかわらず、埒が明きませんでした。ちょうど法華千部会の給仕のため偶然参上したので、なんとなく申請したのです」とのこと。
十二日、いつものとおり出仕。この日の朝、高江(薩摩川内市高江町)の大泉坊の弟子に、中納言公がお会いになり、銭百疋を進上した。あわせて、大岳坊もお会いになり、中紙三束を進上した。この日の朝、入来からの返状(十月九日に書いた書状への返書ヵ)を御老中のお目にかけた。
 この日、(義久の)狩りの準備のため、お暇申し上げて、永吉(日置市吹上町永吉)に向かった。それから(永吉に)留まった。
 この日、村尾兵部少輔(入来院氏家臣)を拙宿に呼び寄せ、山田((薩摩川内市永利町、島津氏に返上した入来院氏旧領)の田数書付について糾明した。「四十三町七反は浮免(年貢・公事などの免除地)で、寺社家領が十町ほどある。〝爾爾ならざるもの〟は知らない」とのこと。畠地はそれぞれが少しずつ知行しているが、どれだけかは分からないと答えた。門は十あり、屋敷は九あるとのこと。
 この日、野村美作守(秀綱、平佐地頭)殿・鎌田外記(政心、百次地頭)殿に、(義久の)御用があるとのことで、(御内に)召集されたので、(川内方面の取次である自分も)祗候した。それから平田(昌宗)殿のところで談合。山田新介(有信、高江地頭)殿も参上された。拙者は、伊作での御狩りのため明日出発するので、伊作地頭の考えについては、白浜防州(重政)が聴取するということに決まった。
 この日、二階堂(三郎次郎)殿が、役所についての地頭との交渉について、拙者に語ってくれた。彼の言い分によると、御老中に直接申請する旨、税所越前守殿には届けていたとのこと。
十三日、伊作での御狩りのため、早朝永吉に向かった。
十四日、(義久の)御狩りがあった。三窪(詳細不明)に参上し、その夜はそこに泊まった。
十五日、この日の朝、永吉に帰った。
十六日、また御狩りがあったので、早朝に三窪に参上した。そのまま(義久の)お供をして、鹿児島に帰った。猪・鹿を二日間の狩りで二十九、〝まろひ候〟(獲物の脚をくくって運びやすくした状態を「丸」という)。
十七日、いつものとおり出仕。川内各地の地頭、鎌田外記(政心、百次地頭)・野村美作(秀綱、平佐地頭)・山田新介(有信、高江地頭)・隈之城地頭比志島笑翁斎(国真、一五二五~八二)の代理として松本雅楽助がやってきた。彼らに対し、新田宮の公事(八月七・十八・二十・二十四・二十六・九月二十四日、執印河内守が三昧衆宮田杢助を養子に迎えることに対し、権執印氏らが反対)について意見を聴取した。彼らが言うには、「とにかく我々から言うべきことは無い。ただ、せっかく集まったので考えるには、(反対している)権執印一人だけ呼び寄せて、談議所(大乗院盛久)に依頼して島津氏への忠誠を誓う〝真判〟(起請文)を出させたうえで強く説得した上で、彼人(執印河内守)を呼び寄せ、養子の件を認めてやれば、ほかの(反対している)者たちも、納得するのではないか」とのこと。それから、この考えを白浜周防介と拙者の二人で、義久に報告した。義久のお考えは、「この件を解決するために地頭を呼び寄せたのだから、彼らの考えでいいだろう」とのこと。ついでに仰るには、「この解決案をとりたてて(義久の)上意としなくても、老中の判断でいいだろう」とのこと。ただ、以前この相論当事者に寄合中から判断を伝えたけれども納得しなかったことについては、「この相論を自分(義久)の耳に入れれば、どうにか判断するだろう。そうすれば、どちらかに不利な判断だったとしても、そのまま結果を伝えればよい。これにより、両者が決裂するようなことになっても、寄合中の責任ではなく、自分(御前)の判断だと考えているのだろう。これは納得出来ない」とのことであった。それから、権執印氏に対し、松本雅楽助(隈之城地頭の代理)を派遣した。内容は、「(奏者の)白浜周防介(重政)・拙者両人から命じる。御老中が(お前に)所用があるので、急ぎ参上するように。その際、今回の相論について、執印殿と千儀房は同心(納得)しているので、座主・権執印と同意見のものは誰がいるのか、書き上げて持参するように」と伝えた。
 この日、山田新介(有信)殿(高江地頭)が御老中に言上した。内容は「高江にいる有馬名字の人と瀬戸口名字の人が、どこかへ移りたいとのことで、お願いしたい。また、従兄弟にあたる山田弥七郎が、去る六月に(義久の)お目にかかりました。それ以前に瘡(かさ)わずらいをした時、叔母が山伏にすると立願したにもかかわらず、それを油断して俗体でお目にかかり、今又ひどい病となりました。英彦山から山伏に成らなかったことへの祟りであると申しております。繰り返しの申請ではありますが、今から山伏にしたいと思うのですが、いかがでしょう。次に、川辺にいる有田氏が、高江に召し移すことに決定しましたが、川辺と所領を掛け持ちではいろいろやりづらいので、高江に加世田の順阿弥が掛け持ちしている門と町三反があります。これを加世田は河辺近くなので、召し替えるのがいいのではないでしょうか。」とのこと。御老中からの返事は、「二人の移動希望の件は、どちらも今回は川内人衆の召移しはしないことになっている。次に、弥七郎殿のことは、本当に繰り返しの申請ではあるが、ついでの時に(義久の)ご意見を聞いて返事する。次に有田氏掛け持ちのことは、今後あなたの申請のようになるようするつもりである。追って返事する」とのことであった。
 同日、鎌田外記(政心)殿(百次地頭)が言上した。「この前、百次地頭職を命じられた際、鹿児島から鎌田勘解由を召し移されました。所領が少なかったので、先に地頭分として与えられていた蒲牟田(宮崎県高原町?)一町を彼に与えようと思い、確保していたところ、思っても無い事態が生じ、勘解由は成敗(殺害)されてしまいました。そして、その所領は別人に下されました。ちょうど今、所領の配当(くりまわし)が行われておりますので、蒲牟田の所領を自分にくだしていただきたい」とのこと。御老中の返事は、「どうあっても必ず配当されるであろう。その時に返事する」とのこと。
 この日、野村美作(秀綱)殿(平佐地頭)から申請があった。「この前、平佐地頭職を命じられ、いままで務めてきたが、これからは務めるのは難しいと考えます。とにかくお願いしますので、解任してほしい。この旨、御老中にお願いして欲しい。もし辞任が認められたら、鹿児島に召し移されるのが子供のためにもなり、それがだめなら、所領が少々ありますので、加世田にでも移して欲しい。また、薩摩山(いちき串木野市)よりこちら側(南側)でさえあれば、どこへでも召し移して欲しい」と、野村民部少輔(是綱)を使者として御老中に内々に伝え、明朝きちんと申請したいので、拙者に取次をお願いしたいとのこと。「明朝、どなたか二人で申請を受け付けます」と拙者は答えた。
 この日、奈良原狩野介(延)殿から申請があった。新城(鹿屋市)に移られて、拙者にお願いしたいことがあるとのこと。「新城に〝ふなま〟という三反の塩屋がある。これを与えていただきたい。それがないのでしたら、小島というこれも三反の場所があります。これを与えていただきたいと、細かく白浜防州にお願いしましたが、これまで不首尾だったので、このようにお願い致します」とのこと。
 この日の晩、泰平寺(宥印、薩摩川内市大小路町)がいらっしゃった。「薬師寺再興について、二・三年前に判形をいただいたが、合戦のの最中だったので、勧進ができなかったので、今から勧進をはじめたい」とのこと。そこで、本願主(発起人)の聖を御老中のお目にかけたいとのこと。その聖は、生まれは河内で、高野山に居住しており、六十六部(法華経を六十六回書写して、一部ずつを六十六か所の霊場に納めて歩いた巡礼者)のため泰平寺に来たところに依頼したとのことで、拙宿にも連れてきたとのこと。良賢坊という聖であった。

(補足・解説)
 地味だが、興味深い事例が散見される。
 11日条の「役所」という言葉。3日条の伊地知重昌からの訴えにも登場するが、どうも特定の建物や役宅を意味するのではなさそうであり、一定の領域を示すとみられる。地頭(外城)が所管する地域を指す言葉のように思える。
 17日条。8月7日以来続いていた、新田八幡宮執印氏が養子を迎える件で、権執印氏らが反対した相論。調停が困難になった状況で、老中は「川内」の地頭衆を召集し意見を聴取している。この時奏者であった上井覚兼(為兼)は、川内担当取次だったとみられ、地頭衆を召集し意見聴取にあたっている。ちなみに、「川内」というと、現在の感覚でいうと平成の大合併前の「川内市」をイメージする人が多いと思うが、この時点の「川内」とは、川内川下流域周辺地域くらいの意味では無いだろうか。地頭衆の意見は、反対派の中心である権執印氏から島津氏に対する起請文を提出させた上で、執印氏の養子縁組を認めさせるというもので、老中はそれをそのまま義久に仰いで決裁を得ようとした。それに対する義久の対応が、義久らしいというか、戦国島津氏の意思決定過程を表しており興味深い。
 義久は、最終決断は老中として下すべきであり、それを自分に丸投げするのは老中の責任逃れだと批判している。義久は、こうした裁決は、老中が意思決定すべきであり、自分はそれを追認するのみと考えているようである。こうすれば、責任は老中にあることになり、自分には及ばない。大日本帝国憲法下の天皇とこれを補弼する内閣の関係に似ているような気もする。このなんとなく責任の所在を曖昧にする意思決定過程は、当主の独裁を防ぎ、家臣団の合意を形成するにはいい制度なのかもしれないが、迅速な意思決定という意味ではあまりいいシステムでは無い。これが、政治的・軍事的意思決定の遅さにつながるのだろう。



『上井覚兼日記』天正2年(1574)10月1日~10日条 [上井覚兼日記]

天正二年(一五七四)十月

一日、この日の朝、いつものとおり出仕。
二日、殿中にて法華千部会をはじめた。談議所にて、法印(大乗院盛久)ら聖家衆百十人で始めた。貴殿様(義久)が一巻から二巻の半分まで聴聞された。出仕はそれぞれいつものとおり。
 この日、御納所衆に使をした。内容は、「日新様の七年忌が来月になる(命日=永禄十一年(一五六八)十二月十三日)。それについて談合するように」とのこと。それから、本田若狭守(親豊)・伊地知越後守・平野丹後守(友治)・加世田衆鮫島二郎左衛門尉・土持若狭守・指宿加賀守、これらの衆が打ち合わせ、万事談合をおこなった。
 この日、平佐石神坊から申し出があった。冠嶽(和光院頼重)との公事(相論)のこと(八月十二日条)。「今月は〝長日前〟(?)なので、こちらで決着すると先月うかがったので、こちらにやってきた。しかし、どうしたことであろうか、(和光院頼重は)こちらに参上しておらず、千部会にも参加していない。覚兼の書状で和光院を説得して欲しい」と、肥後山城守殿と共にうかがった。我等は、まずは御坊は(平佐に)帰っていただき、使者を派遣して冠嶽がいつ(鹿児島に)参上するのか、内々に談合するのがいいだろうと伝え、(石神坊を)帰した。
三日、出仕しなかった。拙宿にて、入江権允が来て、鞁(鼓ヵ)の稽古。この日、伊地知縫殿助(重昌、一五四〇~一六一八)から、中馬氏・梶原氏を使者として、御老中宛に申し入れがあった。「ご存じのとおり、下大隅五ヶ所(垂水・田上・高城・新城・下之城)を返上したところ、下之城(垂水本城ヵ、垂水市本城)のみ拝領し、安堵していただきました。ありがたく思っております。すると、諸所に残してきた忰者どもが下之城に移りたいと申してきました。これに対し(重真=重昌ヵは)『どこであっても、扶持を得て移るように。下之城に集まっても召し抱えることは出来ない』と返事しました。このうように、方々に残っているものが多くおります。しかし、人衆が多く下之城を頼ってきてしまう状況は放置できません。現在、高城の所領は、新城に附属していますので、もし、高城に人衆が移されていないようでしたら、(高城の)下栫に役所がございます。これをお下しいただき、その下々のものを召し置きたいのです」とのこと。詳しく聞いておいた。
四日、いつものとおり出仕。昨日、伊地知殿からうかがった件を細かく御老中に申し上げた。しばらく重真(重昌ヵ)は逗留するようなので、追って返事するとのことであった。
 この日、平田新左衛門(宗張)殿に、川辺から祁答院への移衆日記(名簿)を渡した。早々に命じるようにと伝えたところ、畏まりましたとのことであった。
五日、いつものとおり出仕。入来院より使僧がきて申し入れがあった。内容は、「一昨日、肝付から出家二人が突然やってきた。驚いて問い質したところ、その出家が申すことには、『先月の初めごろ、肝付から意叶という医師が加治木を訪れ、帖佐米山(姶良市鍋倉の米山薬師ヵ)に参詣したついでに、総禅寺(姶良市鍋倉)に立ち寄った。総禅寺住持をたずね、入来院にいる宗符という医者は、本来肝付の人であらしいが、ご存じでは無いですかと(意叶は)尋ねた。その時、意叶は、その宗符の子に、出家一人・俗人一人がいる。今は、肝付に住んでいるとのこと。ある時、総禅寺住持が、おそらく(宗符の)子孫に次のように伝言した。宗符はたびたび総禅寺にも参詣しており、ある時道具箱二つを作って預けてあり、死去する直前に入来院に取り寄せた。もしや総禅寺に〝一節(?)〟作ってあるのではないかと尋ねたが、尋ねるのであれば入来で尋ねるようにと、(総禅寺住持は意叶に)答えたとのこと。この時期、また意叶が加治木に行くというので、我々二人も同心して、総禅寺に参詣しました。親の〝向後〟(その後?)を知りたく、入来までやって来た』とのこと。御老中全員にこの件を披露した。御返事は護摩所にておっしゃった。「肝付から出家二人が突然入来にやってきたのであろうか。その理由は確かに聞いて、詳しく理解した。今は(肝付氏と)和平(和睦)が成立している以上、肝付の者をそちらに出入りさせててはならないとも、出入りさせてもよいとも、寄合中からはあれこれ言うことは出来ない。入来院(重豊)殿の判断次第です。」との返事であった。入来からの使僧は、慈光寺(薩摩川内市入来町浦之名にあった曹洞宗寺院)の同宿である等順という僧であった
 この日、菱刈の本城からの使者二人に対し(上意が)伝えられた。上原尚近と拙者が使番であった。護摩所で申し渡した。内容は、「菱刈(重広)殿は、たびたび当家に対し敵対してきた。先代の貴久様の時、蒲生範清が敵対した際、(貴久が)出陣したところ、菱刈はどういう判断か、向陣(蒲生氏救援のための後詰)を取った。もちろん、天道(道理)は疑いなく(島津氏にあり)、菱刈陣を攻め崩し、菱刈氏の重臣数輩を討ち取ったので、蒲生はすぐに落城した(弘治三年(一五五七)四月)。その後、貴久様が大隅宮内(霧島市隼人町)に出陣した際、菱刈天岩斎(重州)が自ら参上して先非を改め奉公したいと申したので、これを許した。その後、(日向国真幸院=宮崎県えびの市・小林市の)北原家のものどもが、あるいは主人を討ち殺し、あるいは傍輩を妨げ、いろいろと家中に乱劇(混乱)が生じたので、北原掃部助兼親を北原家当主に召し立てようと考えたところ、北原伊勢守(兼正ヵ)が横川城(霧島市横川町中之)に籠もって(反旗を翻した)。これも恐らく、菱刈氏と談合していたのであろう。その時、(北原家の)家中のものたちが申すには、北原氏の当主を立てるには、まず横川城が問題となる。なぜなら、真幸ヘの通り道に(横川が)あるからである。それから、島津貴久自ら甲を着けてたやすく横川城を攻略した(永禄五年(一五六二)六月)。その後、いろいろと菱刈氏が島津氏に誠意を示したので、特に横川を与えた。しかし、(島津氏が)三之山を攻めた際(永禄九年(一五六六))、菱刈氏は伊東氏に足軽を密かに派遣した。また、上村というところで、兵庫頭(忠平)殿が通過する際、少々軍勢を隠して命を狙ったが、(忠平が)御内衆数百人を連れて通ったので、失敗に終わったが、矢を一本射かけたのは間違いない事実である。このような状況だと真幸の支配は難しいと、家中の人々が進言し、馬越を攻略したのである(永禄十年(一五六七)十一月)。その時、貴久は菱刈氏を本城(伊佐市菱刈南浦の太良城)に残そうとの上意であったが、それをどのように考えたのか、祁答院氏を頼って落ち延び、求摩(相良義陽)と結託して、島津氏に敵対した。求摩は大口(伊佐市大口)を堅持していたが、これも天道無二のため(道理が島津氏にあったので)、島津氏の勝利に帰した(永禄十二年(一五六九)九月)。このように、たびたび菱刈氏はたびたび島津氏に敵対してきたので、家を断絶すべきであるが、「国衆を亡ぼすのはいかがなものか」との(貴久の)一言で、現当主の孫三郎(重広)殿が祁答院にいたのを探し出して、今のように本城(伊佐市菱刈南浦)に残したのである。しかし、今また謀叛を起こそうとしていると世間が噂している。本当かどうかは知らないが、世間がそのように噂をするということは、決して菱刈家のためにならないので、どこか似合いの場所に繰替すべきであろう」とのこと。両使が申すには、「仰せの条々はごもっともですので、(本城に)帰り、菱刈重広に一々お伝え致します」とのことであった。
六日、いつものとおり出仕。この日の朝、もとの高祟寺(肝付町)住持だった典瑜が一乗院住持となり、入院の祝いの酒を進上した。我々が〝御手長〟(給仕役)をつとめた。
七日、いつものとおり出仕。新田宮執印と座主・権執印の相論について(八月七日・十八日・二十日・二十四日・二十六日・九月二十四日条)。先月のやり取り(懸引)を細かく白浜防州(重政)と拙者二人で(義久に)ご説明した。(義久の)上意は、「非理を判断し寄合中が意見したのあれば、それ以上自分からとやかく言うことはない。しかし、川内各地の地頭二・三人を召し寄せ、意見を聴取するのがいいだろう。また、正八幡宮の社家衆にもこのようなケースはどうしているのか尋ねるのがいいだろう。それでもはっきりしないようであれば、鬮を引くのがいいだろう」とのことであった。この旨を御老中に伝え、早速川内各地の地頭を召し寄せると決定した。
 この日の朝、伊地知方(重昌、下大隅下之城領主)から去三日にうけた請願を義久のお耳に入れた。御返事は「下大隅のことはよく分からない。そちらについてよく知っている人衆に尋ねた上で談合するのいいだろう」とのこと。ついでに御老中に対してもお命じになった。「伊地知氏のこと。このたびきちんと奉公するつもりがない事が明白となった。いろいろと請願している件、十のうち七・八割りまでは、たとえ理にかなっていたとしても、聞き入れるつもりはない。ましてや、理にかなっていない請願ならば当然却下する。なぜなら、(伊地知氏の)親類が島津家の家臣として代々仕えている。このような申し出を受け入れると、不心得者の申し出も簡単に通ってしまうと諸人が誤解してしまうと、必ず島津家のためにならないと、よくよく申し聞かせるように」とのことであった。そこで、老中の喜入摂津(季久)・伊集院右衛門大夫(忠棟)・川上意釣(忠克)・平田美濃(昌宗)・村田越前(経定)に伝えた。
 この日の晩、伊地知(重昌)殿に返事をした。(伊地知の使者である)中馬氏・梶原氏の二人を拙宿に呼び寄せ、高城麓の役所について、寄合中はその辺りの状況を知らないので、よく談合した上で、追って詳しく返事すると、伝えた。
 同じくこの日の晩、入来院氏からの使僧が伝えるには、「一昨日、使僧で伝えた肝付からやってきた出家とその伴侶は、ともに死罪とした。理由は、(肝付氏と島津氏の)和平が成立したとしても、肝付と入来の出入りは禁止するのが〝当概〟(妥当?)である。その基本方針に基づき、出家と伴侶と召し連れていた下人二人を死罪とした。」とのこと。拙者の返事は、「先の使者から詳しく聞きました。今は和平が成立したので、肝付からそちらへの往来は問題ないのですが、そちらからお尋ねがありました。寄合中としても全く関知せず、入来院殿次第であるので、善悪の判断はしないと、お伝えしたにもかかわらず、死罪にしたとのこと、驚いております。まずはお帰り下さい。ついでの時に御老中に話しておきます。」と答えて、帰した。
八日、今朝、昨晩入来よりの使僧からの情報を御老中に伝えた。(老中からは)「それは言語道断である。そういうことなら、こちらに判断を尋ねる前に(死罪と)判断すべきなのに、今後こうしたことがあっても、こちらは判断しない」とのこと。また、拙者が使僧を夕方に帰してしまったことも、まったくもって思慮が足りないとのことであった。書状をもってこの旨入来へ伝えるように、とのことであった。
 この日、平田美濃守(昌宗)殿の宿舎で、上使江月斎と寄り合った。客居の上座に江月斎、次に周琳、次に拙者、主居に伊集院右衛門大夫(忠棟)、次に濃州(平田昌宗)、次に伊集院右衛門兵衛尉(久治)殿であった。終日酒宴であった。
九日、いつものとおり出仕。昨日御老中から承った、入来院氏への書状を、長谷場織部(純辰)に頼んで書いてもらった。文章は摂州(喜入季久)・右衛門大夫(伊集院忠棟)殿に見せた。
十日、いつものとおり出仕。兵庫頭(忠平)殿から両使が派遣され、申し出があった。両使は恵日院と五代右京亮(友慶)であった。こちらからは、上原長州(尚近)と拙者が対応した。内容は、「鎌田尾州(政年、一五一四~八三、奏者鎌田政広の父)が下城して、上洛を計画しているようである。引き留めた方がいいのではないか。また、光明坊(佐竹義昭、諸国修行をしていて、忠平に召し抱えられた兵道者)も上洛するとのこと。先日、使節を派遣して引き留めたのであるが、使者に会うこともせず、返事もない状況なので、郡山寺(伊佐市大口大田)に説得を依頼した」とのこと。「鎌田尾州下城の件は、伊東上総入道に野心がある旨を、(政年が)飯野の忠平には伝えず、直接義久の耳に入れたことがあった。武庫様(忠平)は〝真判〟をだしており(この件を鹿児島に問い合わせた書状という意味ヵ)、憚り多いことであったため下城するとのことであるが、(忠平としては)まったく納得できない。なぜなら、このような件は鹿児島の義久に急ぎ伝えるのは当然であり、飯野に連絡が遅れたからといって下城するというのは納得出来ない。重ね重ね、尾州(政年)のつまらない言い訳であり、納得出来ない。飯野の判断をごまかすものではないか。(鹿児島が)ご存じないようなので、〝真判〟を出したのである」とのこと。

(補足・解説)
 島津義久のダークサイドがよく出ている。10月3日、平安末以来の名門国衆・菱刈氏(大隅本城領主)に対し、過去の敵対の歴史を列挙したうえで、他所への召移を打診している。その〝悪行〟を列挙した上で、召移を断れないよう追いつめているのが、義久らしいやり方である。
 同日の入来院重豊からの連絡は、伝聞が二重・三重になっており、訳しづらかったので、かなり意訳している。要するに、肝付領(大隅国)から入来院への不審者への対応を、わざわざ老中に尋ねたものであるが、7日には、この不審な出家夫婦とその下人を処刑したと伝えている。あらぬ野心の疑いをかけられ、所領を返上させられた入来院氏による当てつけとも思えなくも無い。
 この二つの件の前提として、この年4~5月頃に降伏したばかりの肝付兼亮の動向がはっきりしておらず、また、日向の伊東義祐との対決がそろそろ迫っているという状況を理解しておく必要がある。伊東氏を攻める際は、日向真幸口(宮崎県えびの市)からのルートが想定され、その背後に位置する菱刈氏が、またぞろ肥後の相良氏あたりと結託するのを島津氏としては恐れたのであろう。また、その伊東氏といまだ手切れ出来ていない肝付氏と、なにか連絡をとっていると疑われては叶わないと敏感になっている入来院氏の状況もうかがえる。
 なお、驚きのあまり、入来院氏の使者を勝手に帰らせてしまった上井覚兼は、老中から「分別不足」だと怒られている。

『上井覚兼日記』天正2年(1574)9月11日~30日条 [上井覚兼日記]

十一日、(記載なし)
十二日、(記載なし)
十三日、この日、田布施に向かい、途中で出迎えて、(義久の)お供をした。
十四日、金蔵院(金峰山、南さつま市金峰町)で(義久が)祈願。伊勢殿(島津薩州家忠陽)は、院主の次に座られた。
 この日、(義久が)能を奉納する予定であったが、雨が降ったので中止となった。
十五日、金蔵院にて能の奉納が成就した。
十六日、常珠寺で(義久が)祈願。
十七日、鮫島土佐守(宗豊)殿の子息が元服。そのついでに、衆中の子息や、また阿多・加世田からも多くが(義久に)面会に来た。
十八日、伊作の湯(現在の吹上温泉ヵ)に出かけられた。この日、酉時(午後六時)ごろお暇申し上げて、永吉に向かった。
十九日、(記載なし)
二十日、(記載なし)
二十一日、(記載なし)
二十二日、永吉有島の道を作り直した。
二十三日、鹿児島に帰った。
二十四日、いつものとおり出仕。新田宮執印殿から書状をいただいた。内容は、「先月から続く相論のこと(八月七日・十八日・二十日・二十四日・二十六日条)、ご祭礼が済んだので、急ぎ裁決してほしい。」とのこと。これを、白浜周防介殿・伊集院源介殿・拙者三人宛にいただいた。御老中に披露した。談合を開き、急ぎ裁決するつもりとのこと。とりあえず、返書は適当に出しておくように、とのことなので、内容に立ち入らないように拙者一人で書状で返事をした。
二十五日、月次(つきなみ)連歌の連衆(れんじゅ)として参加した。
二十六日、いつものとおり出仕。野村美作守(秀綱)殿(平佐地頭)からの書状の内容を、御老中に披露した。野添氏・寺田氏の移動希望について、また、先日大坊を使者として申し出た(八月二十六日条)、天辰名のことである。返書の内容を、(老中の)平田濃州(昌宗)・(伊集院)右衛門大夫(忠棟)殿にご覧に入れ、殿中で書いてすぐに送った。
 この日、和泉(島津薩州家義虎)から使者である島津伊勢守(薩州家忠陽、一五三八~八一、薩州家忠興弟興久の子、忠陽の子久守は西川氏を名のる)殿・指宿周防介・知識弾正忠の三人の仮屋(宿舎)に、寄合中からの使者として、本田若州(親豊)・伊地知勘解由(重秀)・拙者の三人が派遣された。内容は、「現在、世間で雑説(薩州家謀叛の噂)が立っているが、特に先月の初めごろ、喜入久屋斎(喜入氏一族、薩州家家臣ヵ)がこちらに来た。その際、聞いたところでは、「その雑説とは、中書様(家久)から出たものであり、急ぎ義虎が串木野(家久居城)に来て弁明するように。もし弁明が無いのならば、御身(義虎)は終わりになるぞ(誅伐あるいは改易を示唆したものヵ)」と言ったらしいと、喜入久屋斎が喜入摂州(季久、老中・喜入領主)に伝えたので、本田若州(親豊)を使者として、中書様(家久)に事実確認をした。すると、貴殿様(義久)が仰るように、中書は少しもその件は知らないと、直接和泉(薩州家)の使者に話したとのことである。(これに対し)勢州(薩州家忠陽)の返事は、「少しもこのような憶測は、山北(いちき串木野市の「薩摩山」より北の意。この場合、薩州家領を指す)では聞いたことが無い。義虎の言い分、また喜入久屋の言い分を聞いてくる」との返事であった。そのほかにも、高城(薩州家領、薩摩川内市の川内川下流域北岸)と東郷(国衆東郷重尚領)境の雑説(八月四日条)について、いろいろと我々三人に説明してくれた。
二十七日、いつものとおり出仕。昨日の和泉の使者からの返事を、(義久の)お耳に入れようと思っていたが、伊地知勘解由(重秀)・河上(忠克)殿が奏者として御前に参上した際、直接(義久から)お尋ねになったので、勘解由(重秀)一人で勢州(薩州家忠陽)の弁明とそれに対する老中の意向を詳しく申し上げたらしい。それから、また右の三人を和泉仮屋に派遣された。その内容は、「このたび、(喜入)久屋斎が申したことと、使者の考えが異なるのであろうか、勢州同心の人衆を山北に帰して、義虎の言い分を聞いてくるとの判断であろうか。もっともなことである。とにかく、そちらの考え通りでよい。次に、このようにたびたび雑説(謀叛の風聞)が生じており、何か義虎は企んでいるのか、あるいは(島津本宗家への)謀叛を起こすつもりでは無いかと噂されている。いまだこちらにはそうした情報は伝わっていないが、和泉の人衆がそうしたことを申しているのだろうか。あるいは、(薩州家の)家景中(家臣)が申しているのだろうか。誰、何という名字のものが、どのような目的で申しているか、はっきりと説明するように」とのこと。それに対する勢州(薩州家忠陽)の返事は、「昨日は、(喜入)久屋斎が申した〝一ヶ条〟についてだけでしたので、同心の衆を一人帰らせて、詳しく山北の言い分を聞いてくる旨申しました。再び(義久から)ご質問いただいたので、三人いっしょに(和泉に)いったん帰りたい」とのこと。この旨、平田濃州(昌宗)殿に伝えた。とにかく今日は逗留して、明日御屋形様にお目にかかってから退出するようにと、内衆にてお命じになった。
 この日、和泉の使者の宿所に、本田若州(親豊)・伊地知又八殿(重秀の子重元)・拙者で、酒を持参して挨拶に行った。そのとき、拙者に勢州(薩州家忠陽)が仰るには、「東郷と高城とで相論となっている、〝けしかり〟(花熟里、日置市吹上町華熟里)畠地のこと。以前、指宿周防介を使者としてこちらに説明した。そのとき、御使(使番)を伊地知勘解由(重秀)と拙者がつとめた。そのときの筋目があったので、(拙者に)言う。防州(指宿)が説明したとき。こちらからの返事には、『けしかりの事は、双方の意見を聴取するので、どちらの所領ともしない』とのことだった。にもかかわらず、東郷側が麻を植えてしまった。勢州からその件を尋問したところ、東郷からの返事は『全く鹿児島にうかがいを立ててこのようなことをしたのではない。下々のものが勝手に植えたのだ』とのことであった。そういうことならばと、高城側からその麻をことごとく刈り取った。このような行為は、それなりの立場のもの考えでやったことであり、下々が勝手にやったのならば、刈り取る際に妨害するか、刈り取って没収したなら、東郷側から押しかけてくるであろう。もしそうなったならば、義虎が外聞(評判)を失う事態になるでしょう。とにかく、急ぎ(花熟里の所有権を)どちらかに決定していただかなければなりません。」とのこと。そこで、この件を御老中に申し入れた。追って、東郷の言い分を聴取し、返事をするとのことであった。
二十八日、いつものとおり出仕。この日の朝、天草からの使僧来迎寺を、(義久が)お目に懸けた。天草(鎮尚)殿からの進上物は、太刀一腰・厚物二端・馬代三百疋。使僧の個人的進物は、中折三束・扇一本のようであった。
 この日、和泉使者の宿所に、伊地知勘解由(重秀)と拙者が使者として派遣された。上意の内容は、「現在、和泉と天草が義絶している。そうしたところ、天草からの使僧が、島津家に取りなしを求めてきたが、寄合中は(仲介することに)疑問を感じている。ただ、両者が合戦しているわけではなく、先代大岳様(島津本宗家九代当主忠国、一四〇三~七〇)以来、(天草は)当家とたびたび好を通じていたところ、そのご少々中絶していたが、今から先例通りに好を通じたいとの意向を、新納武州(忠元)まで長文にて伝えてきた。その上、老中にまで書状を送ってきたのである。この二通を勢州(薩州家忠陽)にも見せるように」とのことで、(二通の書状を)持たされた。そこで、拙者が読んで、和泉の使者に聞かせた。この書状を写したいとのことで、仮屋(宿舎)に置いておくのでお考え通りにと伝えた。次に、天草と和泉(薩州家)の和睦の件。義虎からは、どの場所でもかまわないので、少し所領を割譲してくれるのであれば、和睦(無事)してもよい、とのこと。(天草からの)使僧に新納武州(忠元)から尋ねたところでは、「所領割譲は出来ない」との回答であったが、極力義虎の意向を来迎寺に伝えるつもりであると、勢州(薩州家忠陽)に我々二人で伝えた。勢州の返事は、「ご丁寧な対応、かたじけない」とのことであった。
二十九日、いつものとおり出仕。伊地知式部大輔(重隆、?~一五七八)殿から同名源左衛門尉・浜田主馬允のふたりで、申し出があった。「高橋(南さつま市金峰町高橋)に〝一所地〟として拝領しております所領は、すばらしい所です。海辺なので、諸事下々のものまで住みよいところです。しかし、山がありませんので、殿中の材木や普請の材料が賦課された時、思うようになりません。ちょうど伝え聞くには、入来院氏が山田を返上されたといいます。そちらの田数は、高橋と同じくらいの場所ですので、召し替えて欲しい。国境であり、若輩である自分には似合わない場所ではありますが、(高橋には)あまりに山が無く、なにかと思うようにならないので。」と、老中まで申し出た。返事は、「いまのところ、(山田については、義久からの)決定・指示は無い。いそぎ談合をするつもりである。その時に、(所領替えの話が)出るかもしれない。もしかすると、あなたのためになることも出るかもしれない」との上意であった。次に、このたび右馬頭(島津以久、大隅清水領主、一五五〇~一六一〇)殿が鹿児島に参上されて談合することとなった。伊集院美作守(久宣)・宮原筑前守(景種)の二人も談合に加えるようにとの(義久の)上意があったので、伊集院右衛門大夫(忠棟)殿からふたりに伝えることとなった。そこで、御老中が書状を認めて、二人に遣わした。
 この日、春山(鹿児島市春山町)での〝呼〟(狩りのこと)にお供した。
三十日、春山でお狩り。その夜までお供して、帰った。

(補足・解説)
 薩摩国和泉領主である島津薩州家義虎の「雑説」(謀叛の風聞)がいよいよ大きくなってきました。薩州家側は、一族の島津伊勢守忠陽(義虎の大叔父興久の子)ら三人が使者として弁明に来た。話がややこしくなるのは、喜入久屋斎という人物の話が登場するためである。彼は、老中喜入季久の一族のようであるが、どうも和泉に在住しており、薩州家の家臣か本宗家からの目付として派遣された人物のようである。彼がもたらした情報によると、「今回の雑説の出所は、串木野の島津家久であり、家久が義虎を脅した」ということであったが、家久本人、そして義久もこれを否定している。
 家久が出所というのはどこまで本当か分からないが、8月4日に薩州家と東郷氏の紛争が生じていたにもかかわらず、本宗家は動いていない。こうした細かい事実を積み上げて、ここに来て一気に薩州家を追いつめるつもりだったのか、27日の義久からの詰問はかなり厳しい。証拠を積み上げて、攻め立てるのは義久得意の手法のようであり、これから十数年後に上井覚兼自身がやられている。
 29日条では、高橋の一所持である伊地知重隆が、入来院氏の旧領山田への繰替願いを出している。山田への繰替願いはこれで3人目。よっぽどいい土地なんだろう。
 なお、覚兼は自分の所領である永吉(日置市吹上町永吉)に滞在中、日記を書いていない。この時期の日記は、あくまで「奏者」としての勤務内容を記録することを目的としており、プライベートなことは書かない方針だったのだろう。プライベートなことも書くようになる、宮崎地頭時代の日記との大きな違いである。

『上井覚兼日記』天正2年(1574)9月1日~10日条 [上井覚兼日記]

今回から9月に突入します。

一日、いつものとおり出仕。和泉(島津薩州家義虎のこと、鹿児島県出水市麓町の亀ヶ城を居城とする)から瀬崎之馬追をやって、あまり成果は良くなかったが、駒一疋を進上しますとのこと。また、(義虎の)奥さん(島津義久の長女「御平」)から「先日、ご丁寧に使者にてご挨拶いただきました。わざわざお礼申し上げるべきですが、まずはついでにお礼申し上げます。」とのこと。使者は、松岡民部左衛門尉という人であった。やがて(義久から義虎に)ご返事申し上げるには、「瀬崎駒をいただきました。ひときわ良い駒で、力の及ぶ限り大切にし、いつかこちらにご参上の際に、ご覧に入れます。」とのこと。奥さんへご返事申し上げるには、「先日、小者衆を派遣したところ、そのお礼をいただき、とても礼儀正しいことだと感服しました。どなた様もお元気とのこと、これも喜ばしいことです。」それから、使者がお暇申し上げたが、御老中から御用があるとのことで、この日は留まるよう伝えた。
二日、いつものとおり出仕。平田石見守殿が言上した。「子供の隼人佑が牛根に召し移されました。我々もそちらに移るべきでしょうが、隼人佑の立場もいまだしっかりしていないので、一月から二月ほど、今の「役所」に留まりたい」と、御老中に申請した。これを、伊集院右衛門大夫(忠棟)・平田美濃守(昌宗)・村田越前守(経定)の老中三人に伝えた。ご返事はなかった。
 この日、和泉(島津薩州家義虎)からの使者松岡民部左衛門尉殿の仮屋(宿所)に、御老中の使者として参った。昨日、(帰城を)とどめたことに他意は無い。ただ、現在世間ではいろいろと雑説(薩州家謀叛の噂)が飛び交っている。それについて義虎殿が、一貫して懸念していると、長文の手紙で(義久に)申し上げたところである。それについて、(義久は)「一ヶ条」(何らかの制裁、糾明?)老中から伝えるようにとの意向である。薩州家義虎の使者がそれを拝命するか、あるいは(この使者が分不相応と)ためらうのであれば、後日誰か、高城・水引あたりの衆中を二人ほど派遣させ、そのときに「一ヶ条」命じる」と、老中の仰せである。彼(松岡)も納得し、「後日必ず誰か参上させるでしょう」と言って帰っていった。拙者が使者をつとめた。
 この日、殿中での弓を、根占(重長)殿が企画した。それを、豊州(島津豊州家朝久)が見物したいと、我らに伝えてきたが、(義久様が)体調不良なので、遠慮するよう伝えた。
三日、いつものとおり出仕。兵庫頭(忠平)殿が昨日鹿児島に到着したとのこと。
四日、出仕しなかったところ、談合があるので来るようにと言われて、未刻(午後二時ごろ)殿中に参上。飯野口(宮崎県えびの市飯野、対三之山の伊東勢)攻略の談合であった。兵庫頭(忠平)殿、北郷一雲(時久)のご意見をしっかりと聴取しないわけにはいかないということになり、新納武州(忠元)・鎌田尾州(政年)・本田野州(親貞)・上原長州(尚近)を使者として派遣した。
五日、入来院(重豊)殿より、東郷宗左衛門尉という使者が来た。木練の柿(甘柿)があったからといって、籠十を進上された。(拙者が)取りなして、(義久が)使者をお目にかけた。御老中からの意見があり、どこの間(部屋)でお目にかかるべきかについて、年始・歳末・八朔の使者とは異なるので、朝ごとの出仕時に上覧なされる間でお目にかけるのがいいだろうとのことだったので、そのように対処した。すると、その後、白浜次郎九郎殿から、上意があり、「かの使者(東郷宗左衛門尉)は中間なのか、どうなのか?」とお尋ねがあった。先ほどのように子細を申し上げたところ、また上意があり、「それは老中が忘れていたのであろう。国衆からの使者は、だれでも対面所のなげしより上にてお目にかけるように」とのことであった。
 この日、また(飯野口)攻略の談合があった。我々も殿中に出仕し、談合に参加した。霧島の御鬮に従い、軍事行動を決定すると決まった。
六日、いつものように出仕。この日、(足利義昭からの)上使江月斎と(義久が)寄合をされた。早々に殿中にお出でになるようにとの使者は、拙者が派遣された。上使は、頴娃(久虎)の仮屋を宿所としていた。私は趣旨を伝えて、戻った。殿中の門までは、頴娃仮屋の閑月という者が案内者をつとめた。奏者は、伊地知勘解由左衛門尉(重秀)で、門まで出迎えた。はきものは、あまうちまで履いていた。それから、唐戸の(義久が)お座りの座から下の座にご案内し、平敷居の上手から上使はお入りになり、奏者は平敷居より下手から入った。それから対面所にて寄合があった。主居は、御屋形様、次に喜入摂州(季久)、次に平田濃州(昌宗)、客居は、上使、次に橘蔭軒(畠山頼国)であった。御膳は三つめまで出した。引き物(引き出物)がいろいろとでた。酒を三辺後、お湯が出た。肴はその都度ごとに出た。御前(義久)の給仕は、新納刑部大輔(忠堯)・本田紀伊守(董親)、客の前は、高崎兵部少輔(能賢)・梅北宮内左衛門尉(国兼)、いずれも手長(酒宴膳部を次の間に持って行く給仕・仲居)は無かった。そのほかの給仕衆は、伊地知勘解由・河上源三郎(久辰)・上原太郎五郎・伊集院源介(久信)・拙者であった。以上、これらの衆であった。「あるむきにて」(意味不明)点心が出た。肴・酒はもちろん、たびたび出された。客人の立つ処(?)は、素麺に据え替えて、肴を出した。その肴が下げられる前に、盃を奉ろうと、給仕が持って出たところで、(上使が)立ってしまった。貴殿様(義久)がなげしの下まで出て、ご挨拶された。酉刻(午後六時)から戌刻(午後八時)までで終了した。
七日、いつものように出仕。この日、田布施の立願の能があるということで、田布施に(義久が)急遽お越しになることになり、お供した。永吉の祭礼もあるので、お暇して(永吉に)向かい、直接、田布施に参ると伝えて、永吉に向かって。
八日、この晩、久多島に参詣。御幣を新たに作ったということで、頂戴した。
九日、「呼」(狩の一種ヵ)に登った。鹿一頭を手火矢で仕留めた。
十日、(記載無し)

(補足・解説)
 島津薩州家義虎からの使者が来ている。ついでに、義虎室=島津義久の長女「御平」からの手紙が届けられているが、これは義久の怒りを緩和するためだったようである。ただ、こんな手は義久には通用しない。雑説(謀叛の噂)がのぼり、「一ヶ条」求められている。『上井覚兼日記』で「一ヶ条」と出てくる場合、相手に対する処罰の意味合いが多い。この場合、雑説への弁明を求めているのだろうか?この雑説が流れる原因は、8月4日条あたりにみえる、薩州家と東郷氏の抗争あたりにあろう。
 後半は、義久の居城である「御内」での、儀式、しきたりについての記述が多い。覚兼が「奏者」をつとめるにあたり、備忘録として日記をつけていたことがうかがえる記述である。それとともに、「御内」内部の構造についても、うかがえる記述があり、興味深い。

『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月21日~29日 [上井覚兼日記]

一週間ぶりの更新です。

二十一日、御老中にお暇申し上げて、(自分が地頭をつとめる)長吉(日置市吹上町永吉)に向かった。
二十二日、拙者が留守中に、川上久隅殿が藺牟田地頭役辞退の件について、義久からの命を伝える役を、伊地知右衛門兵衛(久治)殿がひとりでつとめたとのこと。二人で先日使者をつとめたので、その結果を伝えてもらった。
二十四日、この日、午刻(十二時頃)鹿児島に戻った。それから、平田濃州(昌宗)のところに参り、談儀所にもご挨拶した。その座に参ったついでに、(談儀所から)新田宮衆へ意見(和解勧告)をしたが(八月七日・十八日・二十日条)、受け入れられなかったと承った。
二十五日、月例の連歌会に参加した。座は護摩所であった。貴殿様(義久)・不断光院が同席した。拙者は、五句詠んだ。
二十六日、いつものとおり出仕した。新田宮衆の相論の件(八月七日・十八日・二十日・二十四日条)を、御老中に伝えた。摂州(喜入季久)・意鈞(川上忠克)・伊集院大夫(忠棟)・村田越州(経定)・平田濃州(昌宗)皆々そろって御談合。「現在、新田宮は「御柴中」なので、今回は帰宅させ、「柴」が過ぎてから採決を出す」と伝えるようにとのことだったので、先日来の使者三人で、執印殿・千儀坊に対し、諏訪座主坊において伝えた。なんとか今回で終結させたいとの意向であったが、今後とも御老中にお頼りする立場なので、とにかく御意に従うとのこと。「柴」が過ぎたら、必ず御採決いただくようお願いしたいとのこと。安養院(諏訪社別当寺)もご意見(和解勧告)されたようであり、御老中の村田殿にこの旨報告した。もっとなことであるとのことであった。座主・権執印に対しても、明朝にこの旨伝えるようにとの仰せであった。
 この日、平佐地頭(野村秀綱)から使者大坊が参った。内容は、「入来院(重豊)殿が山田・天辰・田崎を返上されたと聞き及んだ。平佐には、しっかりとした門(かど)が付いていないので、城誘・普請などが出来ないでいる。天辰・田崎を平佐に付けてほしい。先に誰も希望する人がいないうちに、ということで申し出た」とのこと。
二十七日、虫が悪くて(虫気=内蔵系の疾患)、出仕しなかった。昨日、村田(経平)殿が、平佐からの要望を寄合中に披露した。今朝、使僧(大坊)と同心して殿中に参上しよう考えていたが、虫気が出たので、使僧だけで殿中に参上するよう伝えて、本田下野守(親貞)殿に引き継いだ。拙者の忰者が大坊の案内者をつとめた。しかし、事情を聞かないで、また大坊は拙者に(取次を)頼みたいとのことなので、同心して酉刻(午後六時頃)に殿中に出仕した。(足利義昭からの)上使江月斎が、今日(義久と)会見していた。そのときに出仕していた老中衆が皆同席したので、(平佐の件を)披露した。山田・天辰・田崎の事は、特に談合しているので、(要望に応えることは)難しいとの返事であった。
 この日、座主・権執印に返事をして、(新田宮に)帰らせた。
二十八日、いつものとおり出仕した。今日は、能の日であった。支度をして日中に伺うよう命じられて、帰宅した。
二十九日、いつものとおり出仕した。国分筑前守(定友)殿から書状をいただいた。御老中にお目にかけて、返事出すよう命じられたので、返書を書いた。その内容は、「天満宮(現菅原神社、薩摩川内市国分寺町)御宝殿が大破したとのこと。特に、ご神体が雨露にさらされているとのこと、とんでもないことである。しかしながら、今は以前のような宝殿を作ることは出来ない。なぜなら、新田宮が先に修繕計画をたてているが、それもいまだ出来ていない。まずは、茅葺きの仮殿をつくるのがいいだろう。これくらいのことなら、国分殿の判断でできるのではないか、ということを老中から伝えるよう命じられた」と返事に書いた。
 この日、鎌田図書助(政近)殿(向島・大隅新城地頭)が仰るには、「このたび、新城(垂水市新城)に参り、〝役所配〟(新たな衆中への知行宛行ヵ)をおこなった。現在、三十か所ほどあるが、さらに移衆を命じてほしい。次に、向島(桜島)に材木調進を命じられたが、明日から三十日間、向島は〝柴〟である。その間、(材木調進は)難しい。特に、〝すの板〟十枚ずつということであるが、一度に準備するのは難しい。少しずつ調進したい。向島でこれほどの材木を準備するのは、すべて神木なので(難しい)。下々の者は、船木などをとる必要があり、それぞれ苦労して社人(大隅正八幡宮の社家ヵ)と談合している。御材木(島津氏から調進を命じられた材木という意味か)とはいえ、これを伐採するのは恐れ多いというので、向島の役人二人を連れてきた」とのことである。御老中の返事には、「新城移衆の事は、まず書状にて詳しく承っており、談合の最中である。次に向島の神木については、必ず神木を伐採せよとこちらから命じたことはなく、ただ、島に賦課した〝天役〟にすぎない。山がない在所であっても、公役であるのでこのような賦課も応じている。その在所在所の判断で、材木を調達すればよい。こちら(老中)としては、(どのように調達するかは)知ったことではない」とのことであった。
 この日、税所新介(篤和)殿から伊集院右金吾(久治)殿に対し、内々に申し出があり、「今ちょうど移替の時期なので、青江江兵衛を伊集院(日置市伊集院町)に召移すよう、伊集院大夫(忠棟)殿に頼んでほしい」とのこと。返事には、「そのように取り次ぎます。ただ、内々に(義久の)上意を得てから追って伝えます」と申した。

(補足・解説)
 21日から二泊三日で、地頭を兼務する永吉に行っているが、なぜか日記には記していない。プライベートな所用だったのか。なお、天正2年(1574)段階の日記には、公務が中心で、個人的なことはあまり記されていない。宮崎時代の天正10年(1582)以降の記述とは対照的である。
 新田宮での相論は、「柴」を理由に裁決が先延ばしになっているが、「柴」がなにか分からない。29日条にも、「柴」が登場しており、新田宮だけでの問題でも無さそうである。
 なお、現在の桜島は全域が溶岩で覆われており、あまり材木に適した森はなさそうだが、当時はそれなりにあったようで、29日条には「神木」とある。大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)は、もともと桜島を御神体としていたようなので、この「神木」とは、正八幡宮の神木という意味であろう。
 27日条によると、この時期、将軍足利義昭の上使江月斎が下向してきていることがうかがえる。覚兼は担当奏者ではなかったようで、詳細を記していない。前年7月、足利義昭は敵対していた織田信長から追放され、この頃は、紀伊国興国寺に滞在中だったようで。この上使は、島津氏への経済的支援を要請したのであろう。

祝!上井覚兼誕生日 [上井覚兼日記]

 本日、2月11日は、新暦ながら上井覚兼の誕生日です。
『上井覚兼日記』番外編として、その生い立ちについて書いておきましょう。

 覚兼は、天文14年(1545)2月11日、大隅国上井にて、父上井薫兼・母肝付兼固の娘の長男として誕生しました。

 こちらが、父上井薫兼の居城「上井城」です。上野原遺跡ちかくの展望台から撮ったものです。
上井城.jpg

 場所はこのあたり、鹿児島県霧島市国分上井になります。現在、南公園ということになってますが、整備不十分で眺望はよくありません。


 覚兼の頃は、現在の天降川が国分中心部を流れており、上井城のすぐ西側から錦江湾に流れ込んでいました。つまり、上井は大隅国衙の外港的位置にあったようです。覚兼は天文22年(1553)、父薫兼が薩摩国永吉地頭として移封される9歳まで、この地で育ちました。『日記』では、たびたび覚兼が地引き網など漁猟に興味を示しますが、それはこの地における幼少体験によるものかもしれません。

 父薫兼の移封にともない、覚兼が移り住んだのが、薩摩国永吉、現在の日置市吹上町永吉です。
場所はこの辺り↓

 現在の永吉小学校の裏山が、永吉城のようです。

 この永吉城の南側、愛宕山と呼ばれる山の麓にあったのが、文解山という禅宗寺院で、覚兼は天文23年(1554)から元服する永禄2年(1559)頃まで、ここで学問を学んだようです。
現在、その故地には、次のような看板が立っています。
文解山1.jpg

 愛宕山頂上からは、西に吹上浜・東シナ海、北に永吉城とその麓が一望できます。
文解山2.jpg
文解山3.jpg

 永禄2年(1559)頃に元服して「為兼」となのった覚兼は、島津貴久に出仕し、その後家督を継承。天正8年(1580)8月、宮崎地頭に任じられて移封されるまで、この永吉の地頭をつとめました。

『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月16日~20日 [上井覚兼日記]

1月末からクソ忙しかったので、久しぶりの更新です。

十六日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)の血判が届いた。入来院氏内衆五人の血判もあわせて届いた。これは皆役人(家老?)どもである。やがて、血判を(義久の)お目にかけた。入来院氏からの口上は「尾(?)から川内の方を皆返上する旨申し上げたところ、寄田はこれまでどおり下されるとのこと、そのほかも形だけで替地を下されるとのこと、感謝に堪えません。長くこの恩を忘れることはありません。また、山田・天辰に今現在在住の人衆については、清色に移すことは難しいです。こちらからうち捨てるのも忍びがたいので、人衆と合わせて召し上げていただきたい」とのこと。この旨、(義久に)御披露した。すると、(義久は)どう返書を記すか、また人衆をあわせて召し上げるか否か、この二条について老名敷衆(老中)に尋ねるようにとの意向だったので、そのまま老中に尋ねた。老中達が申すには、「返書については、以前入来院氏が神判(起請文)を出してきた時は返書をした。今回は入来院氏に二心があって再び提出されたのであり、こちらから心替わりがあったわけではないので、(返書は)無用である。また、人衆も合わせて召し上げてほしいとの件は、覚兼が返書を出すように」とのことであった。返答は「きっと皆さん年頃の人衆(入来院氏に長く仕えたという意味ヵ)であろうから、こちら(島津氏)の家臣にはならないでしょう。そちら(入来院氏)で引き取るのがいいでしょう、と述べるべし」とのことだったので、そのとおりに伝えた。また、「今後は、起請文に血判して誓ったように永久に二心を抱くことのないよう、書状で命じるべきではないか」との上意があり、老中衆も尤もだとの意向で、すぐに長谷場織部佑(純辰、右筆ヵ)に書状執筆を命じられた。
 この日、中書様(島津家久)から老中に対し、内々に要請があった。対応の使者は、新納武州(忠元)・拙者がつとめた。その内容とは、「(家久が)隈城(薩摩川内市隈之城町、地頭は比志島国真)西手名に四〇町ほど所領を格護している。その所領は「入乱」(錯綜しているということヵ)ているので、隈城とたびたび相論がおきていて困っている。そこで、このたび入来院氏が山田・天辰・田崎を返上したと聞いた。山田(薩摩川内市永利町)は三〇町の名である。しかし、以前「方分」の際、半分はこちら(家久)の所領となった。その残りは、当然三〇町まではないはずだが、三〇町ということで(入来院氏から)召し上げられた。天辰・田崎は、合わせて一二町であり、合計で四二町となる。これを、隈城に格護の所領と繰り替えて欲しい」、との要請であった。二言を言っているつもりはないとのこと。もうひとつ「入来院氏の今回の一ヶ条(野心ありとの噂)は、家久も通報者のひとりであった。つまり、この所領が欲しくて、こうした噂を流したと世間から見られると、困ったものである。これも御老中にご判断いただきたい」とのこと。御老中の返事には、「たいへんいいご提案かと思います。しかしながら、御前(義久)のご意向を存じませんので、こっそり内々に意向を聞いてみます」とのこと。「それもご判断にお任せします。」と中書(家久)は仰った。
十七日、いつものとおり出仕した。川上上州(久隅)の藺牟田地頭辞退の件。伊集院右衛門兵衛尉(久治)と拙者の二人で(義久に)披露した。「彼(川上久隅)は、真意と発言が異なる人なので、今後も(地頭を)お頼みしたいと伝えるのがいいだろう」との上意であった。川上氏がこのような役(地頭職)をつとめるのは前代未聞であるとの主張については、「十四・五年の地頭を勤仕しているのであり、今はじめて任じられた訳ではないだろう」とのご意見であった。
 この日の朝、川辺と島津忠長の相論について、左馬頭(忠長)殿が承諾しなかったことを、(義久に)披露した。直接本田下野守(親貞)を使者として、内々の協議結果を忠長に伝えるように、とのことであった。ついでに、平田宮内少輔の移動願い(八月十四日条)についての義久の意向が示された件につき、平田濃州(昌宗)から御老中に対し申し入れがあり、寄合中といっしょに拙者も承った。(平田昌宗としては)同名(同族)であり、とくに迷惑しており、驚いている。あれこれ申し上げるような立場に無いとのことであった(老中として諮問を受けることを辞退したいとの意味ヵ)。(義久の)御返事には、「濃州(平田昌宗)の心遣いはもっともである。しかし、このような案件は、親子・夫妻には相談するものである。まして、同名であるからといって、そこまで心遣いするのは無用である」と仰った。この旨、平田昌宗に伝えたところ、かたじけない上意であると仰って、寄合中に対し御礼を述べられた。
 この日、左馬頭(忠長)殿から伊地知勘解由(重秀)と拙者が呼ばれたので、二人で忠長の宿舎に参上した。承ったのは、「川辺との相論について、きちんとした対応がなされていない。とくに現在、各地から相論が持ち込まれ、お忙しいようなので、処理がすすまないのだろうから、お暇申し上げる(鹿児に帰る)」とのこと。すぐに、伊集院右衛門大夫(忠棟)・村田越前(経定)・平田濃州(昌宗)に伝えた。御前(義久)に披露するようにとのことだったので、殿中に参上して、小人(小姓ヵ)弥三郎殿を通じて申し上げた。明朝詳しく聞くとのお返事であった。
十八日、いつものとおり出仕した。中書様(家久)が内々に老中衆に申し入れた件(八月十六日条)、これを拙者一人で御前(義久)に披露した。義久の上意は、「西手名を繰り替える件は、まったく納得出来ない。なぜなら、隈城と相論がたびたびおきていると言っているが、なにか問題があるとは自分は聞いていないのに、相論があるという理由での繰替希望はいかがなものか。そして、山田を希望しているとのことだが、ここも一城ある場所なので、平地などとは違い、城を与えることはいかがなものか。特に、今でさえ金吾(歳久、義久弟・家久兄)が中書(家久)の分限(所領)をみて、いろいろと不満をいうことがある。いわんや、城(永利城)と所領を与えたならば、いよいよ不満が尽きることが無くなるではないか」とのことであった。御老中ももっともだと同意して、すぐにこれを中書様(家久)に伝えるようにとのことだったので、承った。
 入来院殿(重豊)へのご返書(八月十六日条)が、この日の朝出来上がったので渡すとともに、返事もおこない、入来院殿はお暇申し上げて、(入来院に)お帰りになった。
 中書(家久)の宿所に参ったが、お留守だったのでむなしく帰った。
 この日、平田新左衛門尉(宗張、川辺地頭)殿の宿所に、伊地知勘解由(重秀)と拙者が、御老中の使者として伺った。内容は「左馬頭(忠長、鹿児領主)との口事(相論)について、(忠長が)まったく納得せず、鹿児に帰ってしまったので、今回は決着しないだろう」と伝えた。彼は川辺に帰っていった。
 この日、執印河内守殿と座主・権執印の口事(相論)について(八月七日条)、まず河内守殿の言い分を聴取した。その主張は「三昧衆宮田杢助という者を、自分の養子として定めたいのであるが、座主・権執印が妨害している」とのこと。それから座主・権執印・総官大検校を拙宿に召し寄せて、言い分を聴取した。(聴取の)使者は伊集院源介(久信)・白浜防州・拙者であった。彼らの言い分は「執印河内守の養子となった者(宮田杢助)は、「殿守」(給仕の女官)の子である。三昧衆というのは、座主・権執印と同座に参るものなので、彼(宮田杢助)がそれほどの高職に就くことなどありえない」とのこと。我々は「彼(宮田杢助)の叔父にあたる人物は、正宮司ではないか。これはどうなんだ」と尋ねた。彼らは「その人物は、神道大阿闍梨であり、その上出家であるので、位(身分)の高下は無関係である」との回答であった。
十九日、いつものとおり出仕した。座主・権執印の相論につき聴取した意見を、御老中に伝えた。老中としては、「三昧衆という立場として、彼(宮田杢助)がふさわしくないというのか。しかし、養子になったのであれば、いかなる賤者(身分の低い者)であっても、養父の身分次第となるのであり、元の親(実の親)の身分や名字などは無関係である」とのこと。これは間違いないので、彼(宮田杢助)を三昧衆から外すことはできない。ただ、新田(宮)はよそに替わったので、神慮がこのようになったと主張するが(?)、道理はまったく通っていない」とのこと。
 この日の朝、川上殿(久隅)がふたたび(藺牟田地頭)辞退を申し出たので、(義久の)上聞に達した。上意では、「(川上)名字でこのような役は務めないとのことであろうか。これはそうであろう。しかし、上野守殿(久隅)は、真幸口(日向国真幸院、伊東氏との境目)で合戦ともなれば、おおいに頼りとする人です。人衆を是非召し連れていっていただきたいので、藺牟田地頭をもうしばらくお勤めいただきたい」とのことであった。
二十日、寄合中と一緒に御前(義久)に申し上げた。内容は「入来院重豊殿がこのたび所領を少々返上されました。天辰(薩摩川内市天辰町)については、以前川内を攻略した際、本田紀伊守(董親)に与えるようにとの仰せで、本田に宛行われるところでしたが、これは入来院氏に与えない訳にはいかないとの意見が出て、入来院氏に与えられました。紀州(本田董親)はその際、格好悪い状況になってしまったようです。幸運なことに今回所領が空いたので、本田に与えるのがいいのではないでしょうか」との上申。拙者が取り次いだ。(義久の)御意は「適切な上申である。よきように寄合中で談合の上、処理するように」とのこと。
 この日、吉利(忠澄)殿より申し出があった。「先月以来、野頸原で相論があり(八月二日・五日条)、(覚兼の)役人二人が召し放ちとなった。このたび(吉利殿が)鹿児島にお越しになり、御老中のもとを訪れ、二人を召し直すよう申し入れたので、早々に召し直すように」とのことであった。拙者は留守だったので、安楽弥平兵衛尉が承っておいた。吉利殿からの使者は、木原掃部助であった。
 この日の夜、談議所(大乗院盛久)に、(新田宮の)権執印・座主と執印殿との相論(八月七日・十八日条)について、ご意見(和解の仲介)をするように、白浜(重政)殿と拙者の二人が使者として申し入れた。明日、意見するとのこと。

(補足・解説)
 前回うっかり書き忘れましたが、桐野作人さんも御指摘のように、8月14日条に、当主島津義久の父貴久に対して、平田安房介が毒を盛ったとの下々の噂があったことが記されている。17日条では、その余波を受け、老中の平田昌宗が、同族という理由で老中辞職の意向を示して、慰留されている。同族と言ってもかなり離れた一族のようである。
 入来院重豊が返上した、川内川下流域の所領の分配をめぐって、いろんな駆け引きがあったようである。なかでも、中書家久(義久異母弟)の動きが面白い。相論解消を理由に、山田を拝領したいと申し出ながら、「所領が欲しくて入来院氏謀叛の通報をしたと見られるのは嫌だ」とは。後年の謀略好きの性格がこの頃からにじみ出ている。
 奏者という立場にあるため、相論に関する記述が多いなか、18日条の身分に関する判断が面白い。宮田杢助の三昧衆就任につき、実の親の身分が低いことを問題視する訴えに対し、養子になった以上、実の親の身分が卑しくても問題ないという認識が、「当然」とされている。厳格なる身分差も、養子になれば乗り越えられるということなのだろうか。
 それにしても、島津義久は一族や家臣の性格をよく把握している。家久の申し出には、理路整然と論破して却下しているし、川上久隅の地頭辞退の申し出については、「彼は真意と発言が異なる」と見切った上で、「伊東氏の戦いではもっとも頼りになるのはあなたですし、人衆(配下となる下級武士たち)が必要でしょう」とおだてて慰留している。こうした判断を、側近である覚兼が支えているのだろう。

『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月11日~15日条 [上井覚兼日記]

十一日、いつものとおり出仕した。今朝、入来院殿(重豊)から申し入れがあり、護摩所にて奏者の本田野州(親貞)・伊地知勘解由(重秀)・拙者の三人で承った。入来からは東鄕美作・山口筑前が使者として参った。内容は、「前に申し上げたように、諸人が(入来院氏に)野心ありと訴えたところ、罪に問われるはずが、(義久の)一言のみで身上をお助けいただきました。その上、本領を安堵していただけるとのこと、恐れ入っております。御老中から内々に拝領地を返上するようにと命じられました。しかしながら、又々申し上げ、(本領である)清色以外に格護している山田・天辰・田崎・寄田(いずれも薩摩川内市川内川南岸)の四ヶ名(この四ヶ名は拝領したもの)を全て返上したい」とのこと。すぐに(義久に)披露した。(義久の)御意は、「この四ヶ名をすべて受け取ると、所領を取り上げたくて「一ヶ条」(野心の件)を持ち出したようにみられる。形だけにして、打ち替え(代替地)を与える」とのことであった。「よし田(寄田、薩摩川内市大字寄田)は、伯囿様(島津貴久)のご判断で、海辺を少し領知すべきであろうということで下された在所なので、領有は問題ない」とのことである。この日、入来院殿(重豊)が殿中に出仕した。
 この日、川辺・鹿児の相論について(八月八日・十日条)、地頭の(平田)新左衛門尉殿(宗張)は、まったく知らなかったとのことなので、これを左馬頭殿(島津忠長)に伝えるようにとのことであった。殿中において、左馬頭殿に申し入れたところ、(忠長は)「老中から(平田への)尋問でははっきりとしたことを言わず、ただ川辺に(盗まれた)馬や人が留められている。(鹿児に)帰すか、帰すべきではないのか、「御料理」(しっかり判断)していただきたい」とのこと。なんとも扱いづらいことだと、御老中たちが語っていた。
十二日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)の仮屋に、奏者三人が同心して返事を伝えに行った。その内容は「山田・田崎・天辰・寄田の四ヶ所を返上するとのこと、このまま召し上げてしまうと、(義久が)所領を望んでいるかのようにみえる。替地を与えるつもりであること。よした(寄田)は、今までどうり与える。血判のことは、急ぎ作成するように」とのこと。血判は、一両日中の鹿児島逗留中に提出するとの返事があった。
 この日、川辺・鹿児の相論について対応しようとしたが、小野(鹿児島市小野)での(義久の)的に左馬頭殿(島津忠長)がお供していたので、実施できなかった。
 この日、平佐(薩摩川内市平佐町)の石神坊が、下人のことについて冠嶽(いちき串木野市冠嶽)への書状を依頼されたのだが、失念していて老中に伝えなかった。
十三日、出仕しなかった。石神坊の下人についての書状を、冠嶽に送った。
十四日、いつものとおり出仕した。鹿児と川辺の相論について、(義久に)披露した。同時に、新納武州(忠元、元奏者・大口地頭)と鎌田尾州(政年、牛根地頭)に相談した。「鹿児側から、盗品の馬と人が川辺に留められており、しきりに返却するよう求めているのだが、どうすべきだろうか」とこの二人に相談したところ、「盗人を射殺した上は、たとえ盗品が目の前にあったとしても帰す必要は無い。ましてや、盗品が無いのならば判断する必要がないにもかかわらず、左馬頭殿(忠長)が何が何でも返却を求めるのは、無理がある」とのこと。この二人の意見を(義久に)披露して、また左馬頭殿にも伝えたのだが、先日と同じ御返事であった。
 この日、川辺・鹿児の相論を伊地知重秀と拙者とで(義久の)御前で披露したところ、ついでに上意があった。平田宮内少輔が牛根(垂水市牛根麓)への移動(召移)が決まっていたが、彼の親である安房介は、伯囿様(島津貴久)に毒を盛ったとの話が、事実かどうか不明であるが、下々では噂されている。そうした状況で、彼を宮内少輔を牛根に召移し、少しであっても扶持を与えた場合、諸人(世間)は、(義久が)親の受けた仕打ちを忘れてしまったのかなどと判断しては困るので、彼の召移は認めない、とのことであった。
十五日、いつものとおり出仕した。川上上野守殿(久隅)が藺牟田地頭役辞任の意向を示した。なんどもなおも(地頭役を)お願いしたいと(義久は)仰った。伊集院右衛門兵衛尉殿(久治、奏者ヵ)・拙者が使いとなった。(川上久隅の)返事には、「川上名字でこのような役(地頭)をつとめることは、前代未聞のことである。合戦の時は、なんとしてでも御奉公するつもりだが、いまは太平になったので、なんとか辞めさせて欲しい」と、強く仰った。

(補足・解説)
 入来院重豊の一件は、本領の清色(薩摩川内市入来町浦之名・副田)以外に拝領していた、山田(薩摩川内市永利町)・天辰(同市天辰町)・田崎(同市田崎町)・寄田(同市大字寄田)を返上することで決着したようである。これに対し、義久は、父貴久が特に宛行った東シナ海沿岸部の寄田を除き、返上を受け入れている。
 川辺地頭平田宗張と鹿児領主島津忠長の、盗人殺害・盗品返還をめぐる相論は、長期化し、かつて奏者などをつとめた新納忠元(1526~1611、49歳)、鎌田政年(1514~1583、61歳)ふたりの老臣を引っ張り出して、判例を尋ねている。窃盗事件の場合、盗人を殺害すれば、盗品は返却する必要はないというのが二人の見解であり、それで忠長を説得しようとしているが、若き忠長は納得出来ないようである。
 15日条の、川上久隅地頭職辞職願は、有名なエピソードである。川上氏は、島津本宗家5代貞久の庶長子頼久を祖とする御一家であり、かなりプライドが高い。地頭は、島津氏被官がつとめる役であり、御一家たる川上氏がつとめる役ではないというのが、辞職理由である。実際は、御一家であっても、樺山氏や喜入氏など地頭を兼務するケースは既にあり、久隅のわがままのようにも思えるが、久隅の父昌久は、島津奥州家勝久を失脚させるきっかけを作り、誅殺された人物であり、久隅自身も軍事指揮にかけては大きな功績を残している重鎮である。義久としては対応に苦慮したであろう。

『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月6日~10日条 [上井覚兼日記]

天正2年(1574)8月
六日、天満宮(現在の菅原神社ヵ、薩摩川内市国分寺町)仮殿が廃壊した。合戦にめでたく勝利したので、前代のように宝殿の造立を、国分筑前守(定友)みずから御内に参上して陳情した。あわせて、前代の棟札・切符(寄進状の類ヵ)を持参した。(義久の)返事は、「陳状の件は一々聞き届けた。新田宮造立を企画したが、これでさえ未だ成就していない。現時点では(天満宮造営は)難しい。追っていずれ談合するであろう」とのことで、(国分を)帰された。同社の権宮司もお目に掛けた。中折(半紙の一種)一束を進上した。国分殿は、お茶を進上した。
 この日、伊地知殿(重興、大隅国下大隅国衆、この年島津氏に降伏して出家していた模様)が還俗した。太刀一腰・鳥目(銅銭)三百疋を進上した。拙者が受け取り、(重興は)周防守に任じられた。
七日、新田宮の執印殿・千儀坊が同心して、権執印・座主に対して訴えを起こし、御内に参上した。座主・権執印を召喚するということで、二人はしばらく鹿児島に逗留するとのこと。
 この日、肝付(兼亮)からの使者薬丸弾正忠(兼持)が鷲羽を一尻持参して、拙宿に来た。いつものとおり、酒でもてなす。
八日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)に先月命じられた件についての、(入来院側からの)返事があった。(奏者の)本田下野守殿(親貞)・伊地知勘解殿(重秀)・拙者の三人で承った。入来院側からは入来院殿(重豊)・山口筑前守(重秋)・東鄕美作守が意見を申した。(御内の)護摩所にて承った。その内容は、「先月祗候の際、(島津氏に対し)野心があるのでは無いかと疑念を持たれたが、(義久の)御一言のみで身上(国衆としての地位)を保全され、もったいなくありがたい」とのこと。「そこで、諸人(ほかの国衆たち)が、野心のある者と肩をならべることはできないと仰っているのだろうか。(入来院氏としても)諸人から認めてもらえるようわきまえるつもりだ」とのこと。もっともなことである。それにつき、「拝領の所領を進上したいと思う。(奏者から)御老中のどなたかにお取り次ぎをお願いしたい」とのこと。そこで、老中の村田殿(経定)・平田殿(昌宗)に取り次ぎ、(義久の)御前に披露するとのことであったが、(義久の)ご機嫌がよくなかったので、披露はしなかった。
 河辺(南九州市川辺町、地頭平田宗張)と鹿児(枕崎市、島津忠長領)に相論がおきた。左馬頭殿(忠長)の意向を確認すべく、老中の使者として、伊地知勘解由殿(重秀)と拙者が一昨夜(八月六日夜)、(忠長の鹿児島仮屋に)参上した。ご意見を腹蔵なくおうかいがいしたいと申したのだが、ご本人は姿を見せなかった。ご意向としては「川辺にて、盗人孫左衛門が射殺された。その家(盗人が入った被害者宅ヵ)には、ただ夫婦だけがいたのではない。どのような事情があったにせよ、その治所(鹿児)にて処分すべきであったものを」とのこと。「盗んだ馬・人が既に無いとしても、代物を引き渡すべきであるが、老中がそれを承服しないのは、不満である」とのこと。この意向を、川辺の使者金田殿・折田殿両人に尋ねたところ、まったくそんなことは聞いていないとのこと。それから、(地頭の)平田新左衛門尉殿(宗張)が(御内から)下城されていたところを、南林寺・興国寺などの門前まで追いかけて、「左馬頭殿(忠長)が鹿児島に逗留中に相論は決着するでしょう」と伝えて、両使は早朝帰した。
 この日、相手組御的(八月五日)の返報(平田宗応が亭主の的ヵ)。
九日、いつものとおり出仕した。(浄)光明寺(其阿西嶽)が肝付にいくことになり、(義久の)御用があるだろうと(御内の)殿中に出仕された。拙者が御使(取次)をつとめた。義久から肝付氏への意向は、「庄内(北郷時久)と肝付(兼亮)の和睦をたびたび命じていた。庄内からは肝付氏に対し所領の割譲を求め、肝付はそれを拒否している。このため和睦交渉が難航している。このままではまずいので、義久から庄内に対し、手をいれ(妥協を求め)和睦実現を図りたい。道場(其阿西嶽)が肝付に逗留中に、庄内に使僧を派遣し、互いに面会するよう命じる」とのことであった。浄光明寺は領掌し、肝付へと向かった。
 この日、未刻(午後二時頃)、平佐(地頭野村秀綱)から書状が到来。内容は、「中郷(薩摩川内市中郷付近)へ東鄕勢二・三百ほどが攻め入り、(薩州家義虎が配置した)中郷地頭烏丸紀伊介を追い出した。結果的に僧一人・俗人三人が射殺されたようである」とのこと。返事には、「いただいた情報は、御老中に披露した。今後もそちらの状況を調査し、適宜ご注進されるのが大事だ」と記した。
 この日、肝付使者(薬丸兼持、八月七日条)の宿舎に、伊地知勘解由(重秀)と同心して御礼に行った。老中伊集院右衛門大夫(忠棟)のところに行っており、留守だった。
十日、いつものとおり出仕した。入来院殿(重豊)の申し出(八月八日条)を、奏者三人(本田親貞・伊地知重秀・覚兼)一緒に(義久に)披露した。「一両日中に御談合衆が集まるので、老中が対応を相談するのがいいだろう」との上意であった。「ただ、所領をどれだけといって召し上げると、所領が欲しくて(野心の風聞を)言い出したように見える。十町を形だけ召し上げた上で、別の場所に十町繰替地を与えるのがいいだろう」との御意であった。神判(起請文)は、これまた文言を談議所(大乗院盛久)に起草を命じられた。ただ、「入来院との分別以」(入来院氏の対応を見てという意ヵ)臨機応変に対応するようにとのこと。また、入来院氏の年行共(家老ヵ)や、萩野采女という者など、両氏の間で馳せ回った連中も、それぞれ神判・血判を提出させるべきである、との仰せであった。
 昨日、平佐(地頭野村秀綱)から到来した書状を、今朝義久のお目にかけた。
 この日、鹿児と川辺の相論(八月八日条)について、今泉寺(南さつま市加世田川畑)の代理として、川辺の等持坊が参上した。伊地知勘解由左衛門尉殿(重秀)と参会し、意向を聞いた。左馬頭殿(鹿児領主島津忠長)の主張について、金田殿・折田殿から事情を聞いたところ、地頭の平田新左衛門尉殿(宗張)は全く知らないとのことで、興国寺門前まで来て(いざとなった寺入するということヵ)、このたびの事態について老中に取りなしを依頼した、とのことである。

(補足・解説)
 6日条の伊地知重興は、大隅国下大隅(垂水市)の国衆。永禄4年(1561)以来、同国高山の国衆肝付氏と連携して島津氏に抵抗してきたが、この年、とうとう島津氏に降伏した。降伏後、出家して謹慎していたのであろうが、義久の許しを得て還俗したということであろう。あわせて「周防守」に任じられているが、これは同氏の当主代々の受領名であり、国衆伊地知氏の存続を認めたことを意味する。
 8日や意味が取りづらい。7月に国衆入来院重豊(?~1583)に野心の風聞がのぼり、このため八朔での順位が問題になったようである。入来院氏から所領献上を申し出て手打ちとなったようであるが、10日条での義久の対応が面白い。所領が欲しくて野心の噂を立てたと思われるのはなんだから、10町献上させて、別に10町与えるとの意向。「外聞」をやたらと気にする義久の性格というか、島津家の家風が出ている。
 4日条でも話題に上った、東鄕重尚と島津薩州家義虎の所領相論は、9日条によると東郷氏による武力侵攻という事態に発展している。現在の薩摩川内市の中心部、川内川北岸は16世紀初頭から東郷氏の所領であり、薩州家との抗争が続いていた。元亀元年(1570)、東郷氏は入来院氏とともに島津氏に降伏して、この地域を返上し、薩州家義虎領となった。従属国衆どうしの武力紛争にたいし、島津本宗家がすぐには介入せず、情報収集を指示するのみなのが面白い。
 一方で、9日条によると、肝付氏と北郷氏の和睦仲介に義久が乗り出したことがうかがえる。肝付兼亮(1558~1634)は、伊地知氏ともにこの年、ようやく島津氏に降伏し、肝属郡を安堵されたとみられる。しかし、所領紛争は続いており、島津本宗家と対等に近い同盟関係にある御一家北郷時久は、肝付氏に所領を割譲を求め、いまだ和睦が成立していない。義久は、ともに肝付氏と戦ってきた盟友北郷氏に譲歩を求めると言っているが、果たしてどうなるのか?

『上井覚兼日記』天正2年(1574)8月1日~5日条 [上井覚兼日記]

長年放置していたこのブログですが、気が向いたので、『上井覚兼日記』の現代語訳を連載することにしました。
暇な時にだけ、ちょくちょく追加していきます。
底本は、『大日本古記録 上井覚兼日記』(岩波書店)。ほとんどが、東京大学史料編纂所蔵の覚兼自筆本ですが、一部欠本を都城島津家史料本で補っているようです。

まずは、天正2年(1574)8月1日~5日条。この年、覚兼は30歳。島津本宗家当主義久の奏者で、薩摩国永吉(鹿児島県日置市吹上町永吉)の地頭を兼務。基本、鹿児島の義久居城である「御内」(内城、鹿児島市大竜町)付近の仮屋に常駐し、御内に祗候している時期です。


一日、恒例どおり。太刀一腰・青銅(銅銭)百疋を(義久に)進上した。(義久からの)御返礼として、太刀一腰・弓一張を下賜された。
 今朝、入来院重豊殿(薩摩国入来院国衆)、太刀を東鄕重尚(薩摩国東鄕国衆)の次に献上するよう、(義久が)仰った。御老中からは、「東鄕・祁答院・入来院の三家は同家なので、東鄕の次には根占(祢寝重長)殿の太刀をお受けになるべきである」と、強く申し入れがあった。入来からの使者村尾蔵人が申すには、「若輩でありますので、罷り帰り、入来院弾正忠(重豊)に相談の上、後日対応を決めたい」とのことであった。考え直すように伝え、「その家(渋谷一族)が誰か一人諸人の上(トップ)をつとめたならば、庶子は誰の次に献上したとしても、問題ない」と(老中は?)仰ったのだが、かの使者(村尾)は納得せず、同意の返事さえせず退出した。かの使者の介添えは、本田因幡守親治と拙者がつとめた。
 この日、拙者は、御一家・国衆の奏者を担当した。
 この日の晩、旧例のように、一王大夫(河野通貞)が(御内=義久居城)殿中にて、式三番をおこなった。各々片衣を脱いでおこなった。拙者は、「通之衆」を承り、銭十疋を請け取った。
二日、早晩に出仕した。平佐地頭(野村秀綱)から、衆中二・三人をどこかに召し移して欲しいとの申し出有り。「平佐は国境なので、なお人数を多く配置しておくべきであるので、衆中をよそへ移す件は許可しない」と仰ったので、その通り伝え、(野村)は帰って行った。
 この日、上原長門守(尚近、日向飫肥地頭・奏者)に相談した。吉利(日置市日吉町)と野頸原(日置市吹上町永吉)とで、畠地について六月頃から相論がおきている。それについて、役人二人が、御老中の意見(答申)により召し放たれてしまった。これをどうするからについて、以前から(義久への)取りなしを(上原に)お願いしていたので、(義久の)内々の意向をうかがった。すると、伊集院右衛門大夫(忠棟)殿に相談し、五日前に吉利に(役人を)召し直すよう命じられたので、きっと元に戻っているだろうとのことであった。いまだ復帰していない旨申したところ、 そのうち御的について、(義久が)書状を送るので、その袖書きに早々に召し直すようお命じになるとのことであった。
三日、いつものとおり出仕した。鎌田外記(政心)殿・鐘林庵・松山隠岐守殿・有屋田名字の人、この四人が同心して(御内に)参上した。鐘林庵は、無住の小庵があればご下賜いただきたいと訴え、空きが出来次第遣わすとの(義久の)回答を得て帰って行った。有屋田殿は、蒲生への移動希望であった。伊集院右衛門大夫(忠棟)殿にこの旨を伝えたところ、蒲生に所領の空きは出来ないだろうとのことだったので、その旨伝えて帰した。
四日、出仕しなかった。この日は、喜入(季久)殿の御仮屋にて、寄合中(老中)が揃って談合。川内(薩摩川内市中郷付近)から水引(同市水引町、島津薩州家義虎領)に対し、火を立てる(攻撃をしかける)旨、東鄕重尚の連絡はなかったかと、(老中から拙者に)お尋ねがあった。まったくそのような話は知らない旨申し上げた。あるいは、白浜周防介殿(重政、東郷氏庶流)なら知っているかもしれないということになり、我等(奏者)から尋ねたが、彼も聞いていないとのことであった。
五日、相手組の弓矢があった(対戦形式の弓競技?)。平田平二郎殿殿(宗応)が相手であった。この日は拙者が亭主をつとめた。
 この日、殿中において、上原長州(尚近)に相談した。吉利忠澄と相論となり役人共が召し放ちとなった件。吉利忠澄から何も連絡がないので、このまま彼らを召し使ってはならないということでもないだろうから、見参(その役人を引見=再雇用)する旨、(義久に対し上原を通じて)届け出た。吉利からいままで異議申し立てが無いのなら、早々に見参するのがいいだろうとのご回答だったので、彼らを召し寄せ再び役人を申しつけた。
 この日は、大酒を飲んだので、後日のために、瀧聞宗運(奏者)に上原長門守への返事を依頼した。

(解説・補足)
 基本、覚兼がつとめる「奏者」とは、島津本宗家当主義久と、老中(近世の家老)以下家臣や国衆、寺社との「取次」を担う役職です。義久の側近です。
 この期間も、贈答品をやりとりする「八朔」の儀式において、当主義久と御一家(島津氏一門・庶子家)・国衆(非島津氏の有力領主)の取次を担当しています。プライドの高い入来院氏の使者が、贈り物を義久に献上する順番について、祢寝氏の次になったことを承服せず、帰ってしまったようです。それは、伊集院忠棟ら老中の指示だったようですが、使者への応対は覚兼ら奏者の役割であり、とりなしに苦労しているようです。
 2日・3日条からうかがえるように、領内各地の要所に配置された「外城」を所管する地頭や、その地頭配下の「衆中」の移動希望、坊主の寺が欲しいのとの訴えも、覚兼ら奏者が、義久や老中に取り次いでいます。
 ただ、2日・5日条からうかがえるように、みずからが紛争当事者になった場合は、自分では義久・老中に上申できず、同じく奏者の上原尚近に取次を依頼しています。

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